私は、26歳で結婚し、新婚生活を千里川に近い箕輪1丁目の文化住宅で始めました。
入居して1年後、長女が生まれて1か月後の1967年7月、集中豪雨がありました。その時、千里川は5か所で決壊し、私の文化住宅は1mの床上浸水になりました。怪我はありませんが、1階にいたため、布団やタンスなど家財道具はすべてダメになりました。当時の避難所や仮設住宅のことは覚えていません。私は次の住まいが見つかるまで、職場の3階で仮住まいをしました。
次は、水害とは無縁の場所に住みたいと思い、千里川に近い千里園3丁目で手ごろな建売住宅を見つけ、親戚の資金援助も受けて買いました。
その後、千里川は拡幅、護岸の強化など抜本的な河川改修が行われました。私は27年間、千里川を怖いと思ったこともなく平和に暮らしていました。
ところが1994年9月6日、関空が開港した翌日のことです。夜の10時頃から大雨が降りだし、千里川の水が溢れ、千里川に流れ込むべき水路の水が逆流し、我が家は床上浸水数十㎝になりました。今度は、自分の家だから見捨てることはできません。家財道具を大量に処分し、家を補修し、住み続けることにしました。
その時、共産党の堀田議員と松野議員が、千里園地区に降った雨をポンプで千里川に排水する施設・千里園ポンプ場(蛍池南町2丁目)を市が計画していながら、実際には建設しておらず、建設すれば、千里園地区での水害を軽減できると強く主張し、建設のために頑張っておられました。私は、それに期待しました。
98年8月にも大雨で床下浸水になり、千里園ポンプ場の建設は何時の事かと思いましたが、05年にようやく完成しました。
千里川の標準的な治水対策は済んでいます。しかし、川は流れています。長年月の間に、川底に土砂が堆積し、あるいは護岸の裾がえぐられ、護岸内部の空洞化も進行します。天気のいい日に千里川の護岸が崩壊という事件も十年に一度は起きています。
川の見守りは永遠の課題です。これは大阪府の仕事ですが、周辺住民も参加できることです。
今月4日、日本共産党の山本いっとく府政対策委員長、やまはた光子くらし子育て相談室長とともに千里川の堤防を歩きました。
護岸の石積みの隙間が大きくなっていたり、川底が深くなって、護岸を守る連続壁という杭が露出していたり、気になる現象が起きていました。
4度目の水害は絶対御免です。今年の全国の水害のように、最近の豪雨は常識を超えています。私は、千里川をいつも見守り、いっとくさんや、やまはた光子さんの力を借りて大阪府池田土木事務所にでかけ、千里川の治水対策の強化を求めていきたいと考えています。